��20 稲村ガ崎

推薦のことばいちろう
右手に富士、左手に江ノ島を展望し、眼下に七里ケ浜を見下ろし、その眺めは素晴らしい。
ヒント
134号線から、ほとんど見える位置に石碑があった。
眼下には稲村ヶ崎海岸が広がる。
ウンチ喰う
稲村ガ崎は今は、美しい公園になっているが有名な古戦場である。元弘3年(1333)5月の新田義貞の鎌倉攻めの際、海中に宝剣を投げ入れ、潮が引いたところを一気に攻め入った...という伝説は余りにも有名。鎌倉への突破口となった所である。
北条軍の強固な守りにより、新田軍は鎌倉へ攻めあぐんでいた。5月21日の深夜、稲村ガ崎に至り、岩頭に立って、竜神に祈ったと言う場はここであった。義貞は潮の引いたのを見て、義貞は、6万騎を率いて稲村ガ崎の岸壁沿いに鎌倉へ突入し、源頼朝以来150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのである。
ボート遭難慰霊碑
1910(明治43)年1月23日、小学生1人を含む逗子開成中学の生徒が乗るボートが沈み、12名全員の命が失われた。 抱き合ったまま発見された兄弟(徳田四兄弟の長兄・勝治と末弟・武三)の姿をモチーフにブロンズ像が建てられた。 法要の時、鎌倉女学校の生徒が合唱した「七里が浜哀歌」は、全国にヒットした。
七里が浜哀歌
真白き富士の嶺 緑の江の島
仰ぎみるも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心
三角錫子(鎌倉女学校教諭)作詞 ガートン(アメリカ)作曲
コッホ記念碑
稲村ヶ崎公園山頂には細菌学者のコッホの記念碑が建つ。この碑は針磨橋の脇から下手窪を登った霊仙山にあったが保存状況が悪く、鎌倉市医師会がこの地に移したものである。
北里柴三郎は、ローベルト・コッホのもとにドイツ留学し、医学、細菌学を学んで帰国した。免疫血清による破傷風の治療法の確立するなど細菌学に多大の貢献をした。



